局長の四象八牛です。
前回の日記に書いた陽朔の諸葛村、けっこうたくさんの反応がありました。諸葛村はまだ何カ所かあるようなので、いずれは訪れてみようと思っています。さて、旅日記の続きを書きますか。
2015年5月5日 長沙~益陽~長沙
K780次列車は10分遅れで長沙火車站に到着しました。夜中に見回りの乗警に起こされたり、朝早く車掌に起こされたりで、あまりよく眠られませんでした。次に乗るT8308次列車の発車時刻までは少し余裕があるので、朝食を食べることにします。長沙火車站には李先生がありました。でも朝から食べるのはちょっと。でも夕食はここで決定です。火車站からあまり離れたくないので、結局朝からマクド。猪柳麦満分とコーヒーです。
T8308次 長沙(07:48) – 益陽(08:58) 硬座15.5元
さて、今日はT8308次列車に乗って益陽へ向かいます。約1時間ほどの乗車で益陽に到着。まずは城壁跡が残っている益陽古城へ行くことにします。市バスで途中まで行き、そこからは資江に沿って東へ歩いていきます。しばらくすると関羽像が見えてきました。ここが大渡口という場所らしく、関羽が青龍刀をひっさげて一人で呉に乗り込んだ単刀赴会処のようです。
関羽像から北の方に城壁が延びていて、ここは魯粛巷という通りになっています。現在残っている城壁跡は清代に青煉瓦が積まれたものですが、それより遥か前に魯粛が堤防を築き、魯粛堤と呼ばれていたそうです。それが後に城壁になったのだとか。
城壁の残っている場所は小さな公園になっていて、益陽の三国志遺跡の紹介がありのですが、その上には漬け物らしきものが干されていて、まったく読めない。人民にとってはこの程度の扱いでたりるのです。はあ。
さてと、実は益陽のことはあまり下調べしていませんでした。あとは諸葛井くらいかな。しばらく休憩を兼ねて、スマホで情報収集をします。諸葛井もこの近くにあったそう。いちおう、益陽の古城内だった地区を歩いてみます。魏家巷あたりに諸葛井があったらしいのですが、ネット情報によると糞池にされてしまったのだとか。ああ。
気を取り直して、新しく作られた古道街にある諸葛井へ行きました。ここは言ってみれば偽物なんですが、それらしく作られています。三国志遺跡を大事にしているのかどうかわからない街ですね。
さらにスマホで情報収集します。すると先ほど見た関羽像とは別の関羽像が出てきました。調べてみると資江にある青龍洲にあるとのこと。ここは、関羽が魯粛と甘寧が守る益陽を攻めようとしたとき、甘寧が備えを整えていることを知り、資江を渡ることを止め、中洲に駐屯したとされるところです。関羽瀬と呼ばれています。
像があるなら、さっそく行ってみましょう。青龍洲は諸葛井から近いので、歩いて向かいます。河の中洲、どうやって渡ろうかな。小さな舟はたくさんあり、青龍洲の住民たちが使っているようです。雨で増水していなければ、浅瀬を渡って行けそうですが、残念ながら前日に雨が降ったらしく、歩いては渡れません。
しばらく眺めていると、人民オヤジが渡しをやっているようですが、なかなか出てきません。困ったな。さらに待っていると、若いニイチャンがバイクに乗って登場。ビービーと鳴らしながら、「媽!媽!」と呼んでいます。このニイチャンのオカン、中洲の方から舟に乗って来ました。ダメ元で声を掛けると、舟に乗せてくれました。片道2元。
青龍洲に渡って、さっそく関羽像のところへ。こちらの関羽像はちょっと若い感じがします。青龍刀の先っぽが壊れてしまっていますが、なかなかいい感じでした。ちなみにここは馬が放牧されています。
さて、また対岸へ戻らなくてはなりません。さっきのニイチャンが「ちょっと畑でも行こうか。」と言ってきます。どうせ時間もあるし、しばらく中洲で散策をしました。羊とかが多かったです。そして、また舟を出して貰い、対岸へ渡りました。素朴でなかなかな好青年でした。
これで益陽巡りは終わりかな。他にも甘寧塁とかがあったらしいのですが、詳しい情報が見つかりませんでした。ちょっと蒸し暑くなってきたので、売店でビールを買って飲みました。砂糖の入っていない飲み物は、水かビールかってくらいなものなので。
さてと、益陽火車站まで戻りました。午後4時くらいです。長沙へ戻る列車は午後9時頃までありません。どうしようかな。列車で戻りたいものの、あと5時間も待つのはさすがに嫌なので、切符はキャンセルしました。そして近くのバスターミナルへ行き、長沙行きのバスに乗り込みました。
長沙西バスターミナルに到着。1時間半ほどでした。バスターミナルには地下鉄駅が併設されていたので、地下鉄2号線で長沙火車站まで戻りました。予定より早く戻ってきたので、早く宿を決めて休むことにしますか。Ctripで長沙火車站前のホテルを予約、確認メッセージが来た後、すぐにチェックインしました。まあ、普通のビジネスホテルのような感じです。
さあ、李先生へ行って夕飯ですよ。いや、別にもっといい食べ物はあるのですが、なぜか李先生へ行きたい。いつも牛肉麺と魚香茄子飯を食べるんです。好きなんです。そして注文します。しかし、しかし、しかし、魚香茄子飯が売り切れとのこと。ショックです。これが楽しみだったのに。しかたないので咖喱牛肉飯にしました。まあ、味はそれなりでした。
その後、スーパーに寄ってからホテルに戻りました。エレベーターに乗り込みます。同乗はオバチャンとオネエチャン。オバチャンに話しかけられたのですが、ボーッとしていたので、降りる階を聞かれたのだと思い、「6階。」と答えました。するとオバチャンとオネエチャンが笑い出しました。もう一度聞くと「要美女嗎?」でした。ああ、そうですかい。「いや、要らないよ。疲れているんだ。」と言うと、オバチャンは「じゃ、マッサージはどうだい。」と勧めてきます。でも四象は公安のお世話になりたくないので、固くお断りしました。
さて、シャワーを浴びて、就寝です。益陽から列車で戻ってきていたら、この時間に寝られていなかっただろうなあ。おやすみなさい。
韓玄墓は中学校内にあるそうそうです。行ってみましたが、門衛のおっさんに昨年工事で壊されたと言われました。今年の地図に載っているし、情報が怪しいので、日曜だったし、中学校内に入ってもいいか聞くと断固拒否され、見れずじまい。まだあるのかどうかわかりません。
張仲景碑があるという病院も工事中で、どうも壊されたっぽいです。
呉末期に生まれ、東晋の名将となった陶侃(墓は湘譚にある)が岳麓山の化け物と戦ったという伝説があって、古譚街の白鶴観にその史跡があるというので、小説のネタとして面白いなと思い行ってみましたが、これも人民のあっちだこっとだの情報に振り回され、見れずじまい。どうやら小さなくたびれた廟らしきものらしいのですが。また、トライしてみるつもりですが、長沙では三国志関連の史跡は満足に見られていません。
益陽は春になったら、行こうと思っています。
韓玄墓は2014年に市級文物保護単位に指定されました。壊されてはいないでしょう。中国人のブログによると、中学の家長会が開かれたときに入られたそうです。文物プレートが付けられていましたから、たぶん今年行かれたんでしょう。おらは2008年に行きましたが、そのときと大分雰囲気が変わってしまっています。
今回は長沙の東、瀏陽が目的地です。時間があれば長沙の西、寧郷の関山古鎮へも行こうと思っています。関山は、関羽が駐屯していた場所らしいですが、観光開発されて三国志関連の人物像がたくさん設置されているようです。
前回書いた長沙市内の場所へも行きたいのですが、なにせ長沙滞在が12時間程度なのでどこまで行けるかわかりません。冬は日も短いですからね。
三国志の小説を書いているアマチュア作家です。
現在、長沙在住で周辺の三国志関係の遺跡を探訪中です。益陽の情報はたいへん有意義なものでした。
あまり有名ではないところのものがあれば、知りたいです。また、拝見させていただきます。
Amazonでも著書が載っていますね。機会があれば読んでみたいと思います。
今月27日に長沙で1日滞在します。近辺にある三国志関連の場所へ行ってみるつもりです。
長沙市内でも魏延が韓玄を刺したとされる場所が残っているそうです。
また韓玄が逃げた通りには、面白い名が付けられて、地名として残っています。
これらも訪れることができれば、またブログで紹介したいと思います。